November 26, 2012

30年の長さ。


5年ぶりにアフリカから帰国して、また都内で暮らし始めるために一月余り右往左往していたのですが、まだ実家には顔を見せていなかったので九州の地元に帰省してきました。

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実家の近くで、思いがけず小学校の時の同級生のお母さんと会う機会がありまして。その同級生は引っ越しをしてしまっていたのでそれこそ小学校の時以来会っていないし、当然その同級生のお母さんとも会っていない。30年くらい会ってなかったのか。

「あらー、久しぶりねぇ。どうしとったと?今どこにおるとね?」
「東京です。先月から。」
「まあー、遠くて大変やねぇ。みんな寂しがりんしゃろう?」

そうか、東京は遠いのだ。「東京です。先月から。」というのは「先月まで海外、それもアフリカだったんですが、帰国して今月から東京で、近くなりました。」というつもりで話そうとしていたんですけど、「遠くて大変やねぇ。」と返されたところで、その先の話を継ぐことができませんでした。

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「遠い・近い」、「大きい・小さい」、「早い・遅い」、「高い・安い」。言われてみればみんな相対的な程度を表現する言葉で、同じような基準を共有していないと表現は一致しないわけでして。

小学校の頃は、隣近所に住んで同じような生活をして、私とその同級生のお母さんの見ている世界に大した差はなくて、「基準」も同じようなものだったんだと思う。小学生の私にとって、確かに東京は遠かった。

そして約30年。言葉の端々から、私の「基準」はその同級生のお母さんの理解の域を超えていることがうかがえて、30年という月日の長さを噛み締めることになりましたよ。

しかしまた、30年を「長い」と見るか「短い」と見るのかもまた、相対的なことではあるんですけどね。

October 08, 2012

旅の写真。


私が旅先で撮った写真には人物が写っているものが少ないです。景色を撮るように、動物を撮るように人にカメラを向けることに抵抗があるから。「撮って!撮って!」って言う子どもたちを撮る、話をしている間に少し親しくなって記念に撮る、なんて場合に限られてます。まあ、中東やアフリカなど、そもそも街中でカメラを構えること自体が不穏当な行動と見られがちな地域の旅行が多かったというのもありますけどね。

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昔、旅先で撮った人物の写真に迫力があって、仲間内から「すごい」って言われていた人の話を聞いたんですけど、その人は、「もう一歩近づく、寄るのがコツ。」と言ってました。たしかにその人の写真はその町で暮らす普通の人の顔がアップになってて、その顔からその町の様子が想像できるような写真でしたが、私はその人の撮る人物写真がいまひとつ好きになれませんでした。もちろん、その人の前では「いい写真ですねー!」とか大人の対応してましたけどね。

好きになれなかったのは、人をただ被写体としてしか見てないその姿勢だったのだと思います。写真を撮る人と撮られる人を俯瞰して第三者の目で見たとして、その情景がきっと愉快なものではないと思えるような写真だったんですよね。不躾にカメラを向けられ、さらに近寄られ、アップの写真を撮られる。それを喜ぶ部外者の撮影者と、愉快ではない被撮影者。そんな情景が1枚の写真からでも想像することができるんです。写真そのものとしては非常によく撮れているものでも。

同じように旅先の人々に近付いてアップを撮っている写真でも、被写体となっている人と撮っている人の間のやさしい関係が思い浮かべられるような素敵な写真をたくさん撮っていらっしゃるのは三井昌志さん。まだ正式に「写真家」を名乗られる前に都内で個展を開かれたときに作品を見せていただいたことがあります。写真を撮る人と撮られる人の様子を第三者の目で見て、そこに微笑ましい情景があったのだろうと思わせられるような写真がいくつもありました。被写体を人として敬い、慈しみ、愛でる気持ちが写真にもちゃんと滲み出るものなんですね。

これだけ高性能でキレイな絵が作れるカメラが普及しても、出来上がった作品には撮る人の「人となり」を物語るところが出てしまう。テクノロジーが進んでも写真が芸術のひとつの分野になっていることも理解できます。

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私の写真に人物の写真が少ないのは、被写体は人であって物ではないという当たり前の気持ちがズケズケとカメラを向けることを躊躇させるから、そして親しくなってもその人の写真を撮らせてもらうという流れにはあまりならないから、要はそういうことなんです。


(※このエントリに掲載している写真はすべて筆者撮影、それも1996年頃にフィルムカメラで撮ったものです。)

September 23, 2012

アフリカの健康問題。



とにかく肥満が多いのです。日本ではまず見ないようなドーンとでかい腰回りの人、デブ特有の足を引きずるような歩き方をする人が多い。アフリカの話ですが。そんなサイズの服はどこで売ってるの?自作?って聞きたくなる人が多いです。聞かないですけど。

アフリカ域内の地方路線の飛行機とかに乗ると、「この人の隣になるのはイヤだな。」というデブが5人に1人はいる感じ。そもそもエコノミークラスのシートの幅にそのお尻が収まるのか?という人もそんなに珍しくない。

東アフリカ、ウガンダあたりだと太っていることが女性の魅力という感覚もあって、母が娘を無理矢理太らせるのが虐待ではないかと問題になったりしているし。西アフリカ、ガーナでも、女性の鎖骨が見えるのはみすぼらしいという美意識があると聞きました。

日本人と違って太っても顔の表情が脂肪に埋もれてしまうことがないのも、太ることに抵抗が少ない理由かと思ったりしてしまう。

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Global FundBill and Melinda Gates財団がアフリカで熱心に取り組んでいるのはHIV/AIDS、マラリア、結核等の感染症だったり、母子保健の改善だったりして、たしかにそれはアフリカの人々の生存を脅かす深刻な問題なのですが、実は「非感染性疾患(non-infectious diseases)」とやんわり呼ばれている症状も意外に深刻になってきてます。有り体に言ってしまえば「非感染性疾患」って肥満、高血圧、糖尿病等の生活習慣病、そしてガンのことなんですが。

元々肥満をそんなに悪いこととは思っていないし、日頃の自身の健康管理についての意識も高くない人々が多いので、今後益々非感染性疾患、生活習慣病の問題は深刻化するんじゃないかと心配です。

(余談ですけど、「健康管理についての意識が低い」っていうのも顕著。うちの事務所のアフリカ人の現地人スタッフにしても、それなりの給料をもらっていて、しかも保険に加入すれば保険料の半分は事務所負担もあり得ると言っているのに、保険に入らない。で、病院に行った時には症状が重篤になって即入院、診療費が払えないので何とかしてくれと泣きついてくる。そんなことばっかり。。。)

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アフリカだと「食糧危機」というイメージがありますが、実は食料が本当に足りていないところはそんなに多くないんじゃないかと思いますよ。本当に食料不足だとそれは「飢饉」と呼ばれるわけですが、今だと、ソマリア・ケニア国境辺りとか、南スーダンくらいじゃないかと。大方のところは食料が足りないのではなくて、流通が悪いとか、食料はあるのに人々が買えないとかいう問題だったりする。あるいはトウモロコシの粉と油ばかり食べてて栄養のバランスが悪いとか。

しかしまあ、都市部と郡部の生活の差がものすごいというのもまたアフリカの現実。肥満が多いのは都市部の話で、田舎に行くと全然違った様子が見られる。カロリー自体が足りてないというところは相当田舎に行っても滅多にないので、田舎に行けばみんなやせ細っているなんてことはまずないんですけど、タンパク質が不足してお腹がポコンと出てる子どもたちはいたりする。

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都市部の「非感染性疾患」、要は肥満が多いという問題が顕在化したガーナでは、政府が「運動をしましょう、野菜を食べましょう」キャンペーンをやったことがあります(今でもやってるのかな?)。ところが、田舎に行くと「肉なんて滅多に食べることができません」、「毎日数キロメートルも離れた水場に歩いて水汲みに行ってます」という生活が普通なので、「運動をしましょう、野菜を食べましょう」と言われても「?」です。田舎では衛生的な水、栄養のバランスの方が重要課題なのでした。

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アフリカの保健・医療分野の問題といっても、もちろん感染症対策、母子保健は重要だけれどもそれだけじゃ片付かないこともある、というのはまあ当たり前の話ですね。

September 10, 2012

マサイマラの真ん中に行ってみた。



アフリカ暮らしも5年になり、そろそろ日本に帰国しなくてはという身の回りの状況になってきたので、アフリカ卒業旅行と勝手に銘打って9月の遅めの夏休みをケニアのマサイマラ国立保護区で過ごしてきました。マサイマラ2泊、ナイロビ1泊の旅です。

マサイマラとはどういうところか、どんな旅が出来るのかはネットで調べれば詳しく出てくるし、旅行記もいろいろと書かれていると思うので、私がまたここで繰り返すのは若干気が引けるんですけれど、それでもやはりスゴイところだったので、少しだけ報告させてください。

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マサイマラはケニア南西部の野生保護区で、タンザニアのセレンゲティと接しています。で、ウィルドビースト(「ヌー」とも呼ぶけど、英語では「wildebeest」の方が通じ易い。「wildbeast(ワイルドビースト)」と綴ってしまうことも。)とシマウマの大群が季節ごとに変わる降水や草の生育具合によって、このマサイマラ=セレンゲティの領域を大移動しています。これが世界でいくつも知られている動物の「Great Migration」の中でも一番有名なものと言ってもいいでしょう。

7月〜9月はこの大移動がマサイマラに差し掛かる時期で、Mara川をwildebeestの群れが渡る壮観な光景も見られたりします。

実は、2008年末〜2009年の年末年始休暇をセレンゲティで過ごしたことがあって、その時期は動物の大群はセレンゲティ側にいて、うんざりする程のwildebeestやシマウマを見たのですが、あれから3年半。今度はマサイマラ側で見てみようと思ったわけです。

(ちなみに、セレンゲティにはビデオカメラを持って行ってました。そのときの様子はこちら。:http://www.youtube.com/watch?v=sg8Hr_Dq3Hg&feature=plcp )

首都ナイロビから約300km、小型機で40分程。地面を整地しただけの滑走路に降り立つと、そこはいきなり野生の真ん中です。滑走路の横にゾウがいたりしますし。





Olkiombo滑走路横の「免税店」。

泊まった宿は滑走路から車で数分。その宿にあった表示板。

予想どおり、野生動物はワンサカいました。







そして、百獣の王、ライオン。子どもライオンがかわいい。(雄ライオンはだらしない恰好の写真ばかりなのでブログに載せるのは止めました。)






チーターの親子。右が母親、左が大きくなった娘。チーターはBig Catの中では縄張りをあまり持たない種類で、草食獣の移動にくっついて回ることが多いそうです。


今回はすごく運が良くて、チーターの狩りの瞬間を目撃できたんです!チーターがインパラの子どもを追い回す肝心の瞬間は写真が追いつきませんでしたが、テレビでしか見たことないあのチーターの滑るような走りが見られました。写真はインパラの子どもを仕留めた後。

母親チーターが狩りをしていたんですけど、一度捉えたインパラをわざと放したんですよね。ちょっと弱らせてから、娘に襲わせる。狩りのトレーニングをさせる行動なんだそうです。ガイドの人も滅多に見ないシーンだと言ってました。


腐肉をあさるハゲワシ。昔、テレビで「動物は遠くからでも腐肉の臭いを嗅ぎ付けるのです。」というようなことを言っていたのを覚えていますが、実際に行ってみると、人間にだって腐肉の臭いは結構遠くからでも分かるもんです。

地味な写真ですが、実はかなり稀なサイ。Big Catの類よりも余程希少なんです。マサイマラでも数が限られているらしい。繁殖が遅いこと、生息範囲が限られていること、密猟の対象になっていることが理由です。私も、繁殖地で保護されているサイは見たことがあるんですが、野生のものは初めて見ました。それもちゃんと角があるやつ。角が漢方薬の材料として珍重され、角のためだけにサイが密猟者に殺されてしまうので、あらかじめ角を切り落として密猟のターゲットにならないようにされているサイもいるんです。

Mara川をwildebeestの大群が渡るのを見ようと待ち構えている人たち。結局この日、この場所では川渡りは見られず。むしろ、この4WD車が川を渡っていました。

それから、レパード(ヒョウ)。茂みの中にいることが多いので、いつも見られるとは限らないレアなBig Catです。私らは運が良かったですよ。




今回訪れた場所は、マサイマラ野生保護区の真ん中あたり。欧米では何度も再放送されているらしいBBCの「Big Cat Diary」というドキュメンタリー番組が収録されているところでもあり、National Geographicの取材が入っているところでもある、というエリア。野生の豊かさが実感できる場所でした。ジンバブエやボツワナのサファリは、乾期には乾燥して厳しい環境になるのに野生動物が息づく、というところが多く、自然の豊かさと厳しさを感じるのですが、マサイマラ、セレンゲティには川が流れ緑が深いエリアもある。肉食獣を頂点とする野生の掟の厳しさはあれど、草原は豊かでした。やっぱり、来てみないとこういう違いは分からないもんです。

そして、泊まった宿も素敵でした。「テント」なんですが、大きなベッドに趣味のいい調度、バスルームもお洒落な感じで。食事もおいしく、ホテルのスタッフの対応もプロフェッショナルでした。さすが国際的に認知されたサファリだな、という感想です。人里離れたサファリだからといって、着の身着のままでタフなテント生活をするわけじゃないんですよ。

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私がその宿に泊まっていた唯一の日本人、経営者が同じ隣の宿に日本人夫妻が一組、あとは欧米系、インド系の宿泊客ばかりだったので、宿の人に「日本人客は来る?」と聞いてみたんです。そしたら「来ないことはないが多くはない。」との返事。日本人はどこでも旅行しているし、ケニアのサファリに来る人も少なくないだろうと思っていたのでさらに聞いてみると、日本人は「DoDo World」のツアーでマサイマラの東の方にたくさん来ているとのこと。なるほど。

「DoDo World」という名前は聞いたことある。たぶん、ホームページはこれ。たしかに、勝手の分からない海外旅行、ましてアフリカのサファリとなると代理店に頼むのが安心ですよね。さらに英語が苦手な日本人となると、代理店を通して日本語でのサポートが付く旅にするしかないかも。

ただ、ちょっと英語が出来るなら、インターネットのこのご時世、自分で手配するのも悪くないですよ。ほぼ全ての宿はネットを通じて予約できるし(というか、世界中からお客さんが来るのにネットを通じて予約できない宿は存在しないのと同じ)、飛行機やその他の移動手段も予約できる。若干手間はかかるかもしれないけど、自分の都合や好みに合わせて手配ができます。

今回のマサイマラ旅行もネットで行きたいエリアや宿を検討して、懐具合と相談しながらの自己手配旅行でした。すごくいい旅先だったのに日本人があまり来ないと聞いてちょっと残念だったので、自己手配の個人旅行をオススメしておきますね。


あ、その場合、予約はホテル比較サイトのようなページからではなくて、泊まろうとしているホテルの公式サイトから予約するのが吉。泊まる予定のホテルと直接やり取りした方が何かと確実ですよ。「最低価格保証!」などという予約サイトでちょこっとケチったばかりにトラブルになったりしたら折角の旅行気分も台無しですし、中間業者が入るとホテルへの質問や要望も連絡しにくい上にトラブルがあった時の解決もややこしくなりますからね。

August 31, 2012

ずぶ濡れになる事情もある。

ずっと昔に読んだだけで記憶がおぼろになっているんですけど、向田邦子さんのエッセイに傘の話があったんです。

「胸の手術をして間もない頃で、腕が上に挙げられないんだけど、何かの都合で傘を持って帰っていた。そしたら雨が降ってきて、傘を持っているにもかかわらず腕が挙げられないので傘を差すことができず、ずぶ濡れで歩いてきた。傍からみたら意味不明だろうけど、当の本人には傘を差せない理由があったのだ。」というような内容のお話でした。

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世の中の出来事やニュースについてmixiやtwitterではき出されているコメントを見るとゲンナリすることが多いのは、この傘を差さずに濡れながら歩いている向田さんの事情を想像してみようという態度のかけらもないような意見が多いからなのです。

「傘持ってるのにずぶ濡れなんてバカじゃね?」

たぶん、こんなコメントが並ぶような気がする。

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短く切り取られた事件事故の記事は、短絡的な反応を誘発します。

「警察官が飲酒して暴行事件を起こした。」
>>「たるんでいる!」、「そんなやつはクビだ。」、「なんで酒なんか飲んでるんだ!」

たしかに飲酒して暴行とはいただけない。でも、報道されていることがすべてではないでしょうし。警察官が暴行に及んだ相手はどういう人だったのか。そこに至るまでにどんなやりとりがあったのか。一部始終を見た上でなら「こんな警察官はクビだ!」と言えるかもしれないですが、もしかしたら同情すべき状況があったかもしれない(し、なかったかもしれない)。

その状況が分からない、ただ短いニュースを見ただけで、厳罰に処せだの緊張感が足りないだのっていう、想像力を欠くたくさんの書き込みが、殺伐としたネット空間を作ってしまう。

「政治家の発言が的を射てなかった。」「芸能人が事件に巻き込まれた。」そんなニュースにも、あるいは傷害事件や殺人事件にしても、短いニュースでは報じられないいろんな背景があるのは間違いない。自分が十分には知り得ていない、報道で伝えられる限りの情報でしかない、その後ろにはもしかしたら想像を超える事情があるのかもしれない。

私なら、そんな限界を知った上でニュースにコメントしたいと思うんですけど、そうじゃない人も多いようで。

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傘を持っていながら雨の中をずぶ濡れで歩く人を見て、指さしながら嘲笑するような真似はしたくないし、それは、ネットの上でも同じことだと思うのです。

August 15, 2012

ンゴマクリラの丘。


 6月にマトボ(UNESCO世界遺産)に行った時にガイドしてくれた人が、「ハラレにいるならば是非行ってみるべき。」と言っていたンゴマクリラ(Ngomakurira)の丘に登ってみました。市内からは30km強のところにあります。
 「地球の歩き方」には記述なし、「Lonely Planet」には半ページほど記述がある場所です。途中であったジンバブエ人に聞くと、「ngoma」が「太鼓」、「kurira」が「音」という意味だそうで、「Lonely Planet」も「祝祭のドラムの響きに由来する名前と考えられ、洞穴の中の音響からよく分かるが、特に神聖な洞穴は観光客は入れない。」と書いてます。





 写真のような矢印のペイントを目印に山登り。そもそもハラレの標高が1500m以上あり、丘の頂上は1653m。息が上がります。久しぶりに肩で息をする感覚。


 丘を登る途中には、ところどころに古い時代の人々が残した壁画が残っています。



 写真では分かりづらいのですが、山腹にある洞穴に降りるには、かなり急な岩肌を降りなきゃいけない。「落ちたら死ぬでしょう」という場所で、高所恐怖症の人は行くのは無理でしょうね。そんなに恐がりでもない私でも、背筋がゾワゾワする感じでした。
 すぐに管理責任だのなんだのという日本なら確実に立入り禁止にするところでしょうが、自己責任で見に行けます。


 洞穴の中には大きな黄色い象の壁画。写真に写っている人もこの日はじめてンゴマクリラの丘に来たというジンバブエ人で、丘の頂上から一緒にここまで降りてみました。彼は手荷物を持って急勾配を降りるのは怖いと言って、一度途中で引き返して丘の上に荷物を置いてから降りてきました。


 丘の頂上からの眺め。この日はちょっと霞んでいて見通しはそんなに良くなかったですけど、それでも絶景です。写真では伝わらないスケールですね。
 今でもこの丘は聖なる場所と看做されているとかで、この日もお祈りに来ている人を数人見かけました。静かな谷で「God and Jesus! Open my spritual mind!」とか朗唱していて、土着宗教ではなくキリスト教なんですけどね。
 で、そこからそう遠くないところで白人ジンバブエ人がバーベキューパーティやってたりもする。


明日はきっと筋肉痛。


July 30, 2012

気楽なカオス。



雲ひとつない土曜の昼下がり、知人の家のベランダで緑の庭を眺めながら、スウェーデン人のおばさんが「このアフリカのような途上国のカオスが、時々恋しくなるのよね。」とおっしゃる。

 そうかも。たしかに、思ったように物事は進まないし、何事も雑だし、トホホなことも多い。しかしその分、うるさい規則やタブーが少ないとでも言いましょうか。 

自己責任の部分が大きい、というか、自分で解決しないとどうにもならないことが多い。店や、業者や、役所に文句を言っても埒があかないっていうことも多くて、自分でなんとか片付けなきゃならない。だから少なくともサバイバル英語くらいはできないとキツい。

 お金で解決しないと仕方ないこともある。電気や水がちゃんと供給されないなら、電力会社や水道局に頼らず自分でその手当をする羽目になったりするし、どうしても必要なものは海外からお取り寄せしないといけなかったりするし。 

それでも、です。穴だらけの社会ゆえの気楽さがある。先進国の人間、特に北欧や日本みたいにきっちりした社会から来ると、途上国の暮らしはストレスが多い。でも、そのストレスは日本にいる時に感じるストレスとは別物です。もっと直接的と言いますか、サービスがちゃんとしてないとか、電気や水や物資の供給が安定しないとか、そういうもの。で、それを処理する術を見出せば、そしてある程度は「そんなもんか」と諦観できるようになれば、実はけっこう気楽だったりする。 

たとえて言えば、自動車道が整備された先進国では「交通ルールをちゃんと守らないといけない」ということがストレスだとすると、アフリカのような途上国のストレスは「道路の穴に落ちたら大変だよ」ってところです。そして、穴に落ちても自己責任だからね、っていう感じ。その代わり、交通ルールの遵守は少々いい加減でもよい。 

そこにずっと住めといわれたら困る。足りない物は多いし、なんといってもケガや病気をしたら、この物事の進まなさはシャレにならない。平均寿命が日本よりずっと短いのにはそれなりに理由がある社会なわけだし。 しかし、スウェーデンなり、日本なりの生活を知っている上で、そこで生活する選択肢を留保した上で、アフリカのような途上国のカオスの中に気楽さを見出すっていうのは、そのとおりだなぁと、そのおばさんのつぶやきを聞いて納得したのでした。

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そして、そのスウェーデンのおばさんと話したのは、自殺が多いのは「きっちりした社会」の方だよね、ということでした。

そのおばさんや私のように、みんながみんな「カオスが恋しい」という感覚が共有できるとは思えないし、今、自殺するほどに悩んでいる人に「途上国暮らしは気楽だよ」って言っても何の解決にもならないとは思います。でも、世界は広くて、もっといい加減な社会もあるんだよっていうのは知っておいて損はないなぁと思う次第でございます。

July 14, 2012

1万円は100万円の100分の1だからね。

ずいぶん前のことになりますが、小中学生を集めて行う夏の林間学校みたいな行事に協力したときのこと。船で出かける旅行だったんですけど、海の上にいる間にビンに手紙を詰めて流してみようという企画がありまして。

 ところが。

 一部の関係者の人が、ビンを海に投げるのはゴミの不法投棄と同じで環境汚染になるから反対だと言い始められましてですね。まあ、原理的にはそうでしょう。自然にはないものを海に投げ込むんですからね。しかし、ガラスのビンは別に有害物質ではないし、世界中で海に流れ出しているゴミが毎年何百万トンあるのか知りませんが、それに比べたら目にも見えないレベル。海の向こうの誰かが拾ってくれたらうれしいな、という子どもたちの無垢な夢を挫く理由にはなるはずもないと思っていたら、反対派の人たちは意外に強硬で、林間学校の主催者側の人に「少量でもゴミになる可能性のある物を海に投げるのはいけない。環境汚染を認めるのか?」と難詰を続けられまして、ついに主催者側の人は手紙の入ったビンを流すイベントを中止すると言わされてしまいました。

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 ゼロリスクを求めていては何も出来ない、ゼロか、そうじゃないかの二元論じゃどうしようもないという話を書いたんですが(「絶対に」安全、なんてないのさ。)、こういう「絶対」を求める人って、量の感覚、数量の理解のバランスが悪いようにも思うのです。

 普通の大人なら、100円と100万円の違いは実感として理解できる。たぶん、1000万円、1億円くらいまでなら感覚として分かる。ところが10億円となるとだんだんその大きさが抽象的になってきませんか?会社経営とかしている人なら実感のある数字でしょうけど、10億円くらいになるとニュースで見る数字であって、日常に接することは少なくなる。そしてこれが1000億円とか、10兆円とかになると、そりゃ数字としてはどういう量なのかは知っているけれど、実感を伴わないものになってくる。

 でもそれは、やはり1000億円であり、10兆円であって、巨額で重大な数字ではあるんです。日常生活の実感からは遠くなるけど、重大な数字なのです。だから、真剣に考えなくちゃいけない。

 なんだか最近、こういう数量の意味を忘れてしまったかのような、日常生活の感覚だけの感情的な議論が多いように思うのです。いや、最近じゃなくて、昔からあったのに、ネットが普及してそういう議論が可視化されただけなのかもしれませんが。

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 国会議員の数が多すぎるとか、議員歳費をもらい過ぎだと攻撃する人たちがいる。そりゃね、税金で賄っているんだから節約するに越したことはない。でも、何を以て「多い」のか。議員の仕事にお金がかかるのは当然だし、有能な人に議員を目指してもらうためにはそれなりの待遇があるべきだと思うの。議員の数にしても、多数代表制でも比例代表制でもいいけど、国民の声を正当に代表させて安定した政権運営をするのはどういう選挙制度でどのくらいの議席が必要なのか、というところから議論すべきで、「まずは自身の身を切る努力から」などという場当たり的で感情的な対策が成熟した議会政治に資するとも思えないんですよね。

 国会議員を一人減らせばたぶん1億円くらい節約になるのかもしれない。しかし、国家予算は100兆円くらいの話をしていて、そこには10の6乗の差がある。100人減らすとしてもまだ1万倍。税金を原資としているのだから節約せねばならない、というテーゼには反論のしようがないですけど、数字を見れば議員歳費の問題とか現実的には重箱を隅をつつく議論と言ってよさそう。節約はしてほしいけど、その議員歳費削減の議論に多大なエネルギーを費やすことが、全体にとって生産的なことかというと疑問です。ちゃんと議員さんにお金を払って、社会保障でも外交防衛でも、落ち着いた議論をしてほしいもの。

 東電の社員が給与をもらい過ぎだと攻撃する人たちもいる。これも、大きな問題を起こして電気代の値上げをお願いしている会社なのだから、人件費の圧縮は当たり前の話であって、それに反論のしようはない。しかし、度を越した攻撃というか、いじめに近い発言を気持ちよさそうにネット上で発している人も少なくないんですよね。

 たとえば東電の人件費は年に4000億円ぐらいだそうで、これの2割減、3割減なんていう話になっているとかで、まあ、1000億円ぐらいの人件費圧縮になる。他方で、原発を停めたことで日本から流れ出している燃料代は年に4兆円、電力不安のGDPへの影響はマイナス1%くらいではという話で、だとするとこれも5兆円くらいの話になる。これからのエネルギー政策とか電力の安定供給とか、1年で数兆円規模になる話をしている時に1000億円にあとどれだけ積み増しできるかという議論にすごいエネルギーを割いて、現場の人たちを萎縮させてしまうのは、正直どうなんだろうかと思うんですよ。金額にして100倍くらい差がある話なのに。東電が憎かろうとなんだろうと、あるいは国有化されようと破綻処理されようと、電力供給の現場の人にはそれなりにがんばってもらわなくちゃならないわけだし。

 生活保護の不正受給に対する攻撃も同じにおいがする。生活保護の不正受給は悪い。それに反論はできない。でも、総支給額3兆7千億円とか言ってて、不正受給率はその0.4%だそう。かくれ不正受給があるとしても、「生活保護受給者が増えている」という問題の本質から見れば、不正受給の問題はせいぜい100分の1の大きさの議論なわけです。

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「国会議員の税金の無駄使いを弁護するのか?」
「東電社員の破格の待遇を擁護するのか?」
「生活保護の不正受給を看過するのか?」

 そういう風に問われれば、「いいえ」という答えしかない。しかし、私たちは完璧な世界に住んでいるわけではないし、人が集まれば不正や不都合も起きる。不正、不都合は少ない程よいには違いないけど、ゼロにはならない。どこまでを社会的コストとして認めるかは議論があると思うけど、話の本質に比べて100分の1、1000分の1の大きさの問題に拘泥し、消耗してしまうのはどうしても生産的とは思えないのです。100万円の稼ぎ方や使い方の話をしなきゃいけないときに、1万円の話でぎゃんぎゃん騒ぎ、疲れ切っちゃうような感じじゃないですか。

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 だから、子どもたちの手紙を入れたビンは、海に流してもいいと思うんです、私はね。

July 01, 2012

ジンバブエ一周、2500kmの旅。


 南部アフリカの中堅国、ジンバブエ。
 2009年まで続いた天文学的ハイパーインフレの印象が未だに根強く、ムガベ大統領の独裁政権が続く国としても悪名高い国ですが、本来は豊かな自然に恵まれ、穏やかな人々が暮らす魅力的な国です。かつては英国の南部アフリカ開拓の要衝、南ローデシアとして知られ、英国系を中心にヨーロッパ系の人々も未だに暮らしていて、植民地時代の名残も留めています。ザンビアとの国境には世界三大瀑布のひとつとして知られるヴィクトリア・フォールズを擁し、欧米、また日本からも数多くの観光客が訪れています。
 20126月、そんなジンバブエ(+ちょっとだけボツワナ)を、自分で車を運転して一周してみました。


 首都ハラレを出発してグレートジンバブエ遺跡(UNESCO世界遺産)で2泊、ジンバブエ第2の街ブラワヨで1泊してカミ遺跡(UNESCO世界遺産)を見物。ワンゲ国立公園の中のキャンプで2泊し、ヴィクトリア・フォールズ(UNESCO世界遺産)で2泊。その間に国境を越えてボツワナ側のチョベ国立公園に日帰りのサファリ旅行。ブラワヨに戻ってマトボ遺跡(これもUNESCO世界遺産)にあるキャンプで1泊して、ハラレまで。計89日、走行距離は2500kmを超えました。


 「ジンバブエ」の国名の由来にもなっているグレートジンバブエ遺跡11世紀〜15世紀頃に栄えたサブサハラ最大の都市の遺跡です。最盛期には12万人が住んでいたと言われます。


 高さ11mに達する石積みは、モルタル等は使っていません。ひんやりと涼しい風が吹きます。


 ローデシア時代には、アラブ、フェニキア、ユダヤ、ギリシャあるいはエジプトなどの文明の一部ではないか考えられていましたが、現在ではアフリカ固有の文明の遺跡であることが分かっています。15世紀頃、人口が増え過ぎ森林資源等を使い尽くしたために滅びたと言われています。


 グレートジンバブエ遺跡に隣接する宿も、遺跡を模した石積みの壁です。


 グレートジンバブエ遺跡はカイル湖(ムティリクウェ湖)の近くです。カイル湖はジンバブエで二番目に大きいダム湖です。(一番大きいのはカリバ湖。)


 UNESCO世界遺産・カミ遺跡。石器時代から人が住んでいたところで、グレートジンバブエが衰退した後の15世紀にトルワ国の首都と定められ、17世紀に北部から侵入したロズウィ国に滅ぼされるまで繁栄しました。(トルワはグレートジンバブエの末裔か、少なくともその影響を受けた国だそう。)ジンバブエ第2の街、ブラワヨの郊外にあります。


 ジンバブエ最大の動物保護区、ワンゲ国立公園。広さはスイスと同じくらいだそうです。写真は今回泊まったキャンプの全景。水辺の前にあるので、特に乾期には動物が集まってきます。


 宿の前の水辺。ウッドデッキで冷えたワインを飲みながら見られる景色です。乾期が始まり、紅葉の美しい季節で、車で走っていると軽井沢かどっかのような感じなのですが、いきなりゾウの群れが車の前を横切るような場所です。




 ナツメヤシの木は誰かが植えたはずなんですけど、今となってはいつ誰が何のために植えたのか分からない、っていう話でした。サルにとっては木の実が取れるし木の上は安全なねぐらになるし、といことで好都合なようです。



 ヴィクトリア・フォールズ・タウンから70km、国境を越えてボツワナ側のチョベ国立公園。この先でザンベジ川に合流するチョベ川のボツワナ側に広がる動物保護区です。対岸はナミビア。ゾウがたくさん。キリン、セーブル、クドゥ、インパラ、バッファロー、ヌーなどなども。


 そして、川沿いなのでカバも。


 ワニもいる。


 泳ぐゾウ。中州に生えている草を食べに行くところです。


 そしてこれ。ライオン。ちなみに雄ライオンは縄張りのパトロールをしていて、サファリのガイドの人でも3ヶ月に1回くらいしか出会わない、と言ってました。


 そして旅のハイライト、ヴィクトリア・フォールズ。幅1.7km、最大落差100m超。滝というか、地の割れ目にザンベジ川の水が落ちる、というところです。


 やっぱちょっと、その場に行ってみないとこの迫力は伝わりませんねぇ。


日暮れ頃。


 ヘリコプターに乗って上空からも見てみました。水煙はかなり遠くからでも見えるし、ゴーって音も聞こえる。



 滝を境に左側がザンビア、右側がジンバブエ。谷に架かっている橋は100年以上前にスコットランド人が建設したもので、ザンビアとジンバブエの国境です。ちなみにこの橋でバンジージャンプができます。


 ホテルのバーから見えるヴィクトリア・フォールズの夕暮れ。


 ビールは地元ブランドの「ザンベジ」。


 ハラレに戻る途中、ブラワヨからちょっと逸れてマトボUNESCO世界遺産)へ。巨石がゴロゴロした景観も面白いけど、ここが世界遺産なのはそれだけが理由じゃない。


 こんな壁画がマトボの丘陵地帯の中に大小数千か所もあり、まだ見つかってないものもきっとある。この地に住んでいた先史時代の人々(サン族)が残したもので、概ね6000年前までに描かれているそう。その後、この地にはあまり人が住まず、再び人が住み始めたのは2000年前からとのこと。


 この洞窟から見つかった若い女の骨は9000年前のものだったと聞きました。


 そして、マトボが世界遺産になっているもうひとつの理由は、ここがこの地の民族・ンデベレ人の聖地であり、同時に英国の南部アフリカ開拓の先駆者たちの聖地になっていたことです。「ローデシア」の名前の由来になっているセシル・ローズ、ローデシアの総督を務めたジェイムソンの墓が「View of The World」と呼ばれる丘の上にあります。

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 ジンバブエ。旧英領ということもあり、欧米からの旅行者はそれなりに多く、要所要所にはアフリカのクラッシックなサファリの味わいたっぷりの快適なキャンプや、コロニアルな香りの残る素敵なホテルがあります。UNESCO世界遺産は5か所あり(今回はそのうち4か所を制覇)、首都ハラレには国際大会が開けるレベルのゴルフ場もあったりする。年を通じて暑くもなく寒くもなく、特に乾期はお天気の心配をする必要のない日が続き、観光地としてかなり魅力的だと思います。

 しかし、いかんせん日本からは遠い。パッケージツアーで南アフリカのケープタウンと組み合わされているヴィクトリア・フォールズに行くのは定番ですが、それ以上に足を延ばすのはなかなか難しいところでしょうね。日本とほぼ同じ広さの国土ですが、国内交通はもっぱら車しかない、というのも難点か。

 このご時世なので、行こうと思えばネットで宿を予約して個人旅行もできますが、宿代がもともとそんなに安くないところなのに、日本人観光客価格でさらに高くつくことも覚悟しなくちゃいけない。土地勘がないといきなり個人旅行は難しいかもしれないなぁ。

 幸い私の場合は南部アフリカ滞在が長く、なんとなく勝手も分かっていたので、物好きな友達がわざわざ東京から遊びに来てくれるという機会を捉えて決行できました。そうでもないと「ジンバブエ一周2500kmを車で」なんて旅行はあまり思いつかないですよ。たぶんこんな旅行をした日本人はほとんどいないんじゃないですかねぇ。

 しかしまあ、盛りだくさんでとってもよい旅になりました。ハードルは高いですが、南部アフリカの魅力を味わう旅、オススメです。